「世界の中心で、愛をさけぶ」の感想文

 夏休みの宿題用に書いてみました。結構、適当です。


  『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んで
 片山恭一 作の『世界の中心で、愛をさけぶ』は、二○○一年四月に発売されて以来、『泣ける』と話題になり、国内のフィクション小説としては史上最多の売り上げを更新し続けている恋愛小説です。
 話の大筋としては、高校生の主人公の恋人 が白血病で死んでしまうという、単純なものですが、少し哲学的な主人公の考え方から、ひとつひとつの文章表現に深みが出ています。
 この作品の特徴のひとつとして、まず、主人公 松本朔太郎とその恋人 広瀬アキ以外に、登場人物がほとんど出てこないということが挙げられます。十代の少年少女を主人公にした青春小説では、学校、家庭、部活動、友人関係と、複雑な人間関係が話に絡むことが多いですが、この作品では学校の先生のことは『教師』と表現して、ほとんど相手にせず、ふたりの両親のことも、ところどころに数少ないセリフがあるだけです。物語で重要な役目を果たしている朔太郎の祖父も、名前さえ与えられていません。つまり、朔太郎が語る物語の中で重要なのは、アキとの関係だけであり、作品全体に極端なほどの恋愛至上主義が流れています。
 そこを踏まえると、題名にある『世界の中心』がどこであるかがわかってきます。朔太郎にとって、生きる喜びはアキと過ごすことに集中しており、アキが死んでからは、アキと過ごしたかつての思い出すべてが、『世界の中心』であると考えられます。ただ、ここは人によって受け取り方が違うところだと思いますし、実際に一井かずみが作画した漫画版では、少し違う解釈をしているようです。
 物語は、
アキが死んでから十年ほど経ち、朔太郎が若い女性を連れて故郷に戻り、アキの骨を撒いて終わります。ここでの朔太郎は、高校時代の悲しみから解き放たれ、アキのことは単なる過去の思い出になりつつ、大切な、朔太郎の成長の糧になっています。
 朔太郎が、いかにして悲しみから再生したのかは、物語の中では詳しく語られていませんが、朔太郎の深い悲しみは、十年という歳月が埋めてくれたのかもしれません。
 人の死はなぜ悲しいのか、天国はなぜ存在するのかなど、作品の中では人の死について、考えさせられる場面があります。それは主に、物語全体の五分の一を占めるアキの死後に語られるのですが、人によっては、この部分が、今までスピーディーに進んできた物語のテンポを崩しているだとか、ヒロインが死んだ後日談が長すぎる、という感想を持つかもしれません。しかし、作者がこの小説を通して伝えたいことは、この部分の哲学的思想に凝縮されており、人の死に対する作者の考え方に、読者もページをめくるのをやめて、考えるようになります。
 ここでは、一見、人の死を美しく必要以上に描いているように思えますが、実際に、好きな人が死んだ朔太郎のことを思うと、ひとつひとつの言葉は大変痛々しく、朔太郎の受けた悲しみが計りきれないほど大きなものであったことがうかがえます。
 しかし、朔太郎は友達の大木と一緒に行った無人島で、アキのことをこのように語ります。

顔を思い浮かべるのには、やや時間がかかった。この時間が、少しずつ長くなってきているような気がする。

 彼はこのことに小さな懸念を覚えます。今まであれだけ愛し、死後も想い続けているはずの人の記憶が、数ヶ月でそこまで風化してしまうことには、誰でも不安を覚えるでしょう。
 そして、大人になった朔太郎は、若い女性の声を聞きながら、アキのことをこう思います。

アキという一人の人間のなかに包み込まれていた美しいもの、善いもの、繊細なものはどこへ行ってしまったのだろう。
 
 そんな中、連れの女性がグラウンドの遊具で遊んでいるのを見て、朔太郎はかつてそこで遊んでいたアキのことを思い出します。しかし、彼にはもう、それが確かな記憶なのかわかりません。
 つまり、朔太郎の記憶の中には、もう、アキの記憶は薄れていて、残っているのは、朔太郎がアキに抱いた印象、その印象のみから作られたアキの人物像、そして「アキ、アキ」と呼び続けたその名前だけなのです。

後悔しないだろうか? するかもしれない。でもいまは、この美しい桜吹雪だ。

 朔太郎はアキの骨を撒くとき、一瞬やめようかと思いますが、それよりも、アキとの思い出を美しい桜吹雪の中で封印しようと、心に決めます。
 アキが生きていたときと、死んだあとの朔太郎の心情の対比、そして、そこからの朔太郎の再生と、この作品には読みどころがたくさんあります。
 本当は深い物語ですが、二百ページという短いなかでまとめられており、一度では読み落としがちなところも数多くありますが、そのようなところを理解できたとき、初めて読んだときよりも深い感動が、心を覆うでしょう。